はぐれ日蓮の信者のつぶやき(自分のことその6)

人間だれしも100%死にます。俺はその答えを日蓮の仏法にみつけました。本当かどうかは自分で実験証明するしかないわけです。 否定する人がいようといまいと関係ないわけです。俺の今まで培ってきた知識とか本能(笑)は間違いないといっているわけです。戸田城聖さんの梧達は本物だと思います。でもあくまで自分自身の悟りが大切・必要ということだと思います。

【生と死と二つの理は生死の夢の理なり、妄想なり、顛倒なり。本覚のうつつを以て我が心性を糾せば、生ずべき始めも無きが故に死すべき終わりも無し。既に生死を離れたる心法に非ずや。劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、剣刀にも切られず、弓箭にも射られず。芥子の中に入るれども芥子も広からず、心法も縮まらず。虚空の中に満つれども、虚空も広からず、心法も狭からず。】

【三如是の本覚の如来は、十方法界を身体と為し、十方法界を心性と為し、十方法界を

相好と為す。】

この生命論です

日蓮の真櫃ではないかもしれませんが、間違いではないと思います

戸田城聖さんの

【その身は有に非ず無に非ず・・・自他に非ず・・・生滅に非ず・・・去來に非ず・・・種々の色に非ず】 この34の非ず の正体・生命・をひたすら題目を唱えて覚知した。 その唱えた回数なんと約200万遍 一分で33回として、一時間1980回これを365日続けて722、700回 約3年かかりますね 一日20分で約9年まあ俺では無理だわ(大笑)

俺はナマケモノで必死さに欠けるかもしれません。でも戸田さんの生命論(日蓮法華経)は間違いないと思っています。

悟ろうが悟るまいが俺(我)というのは永遠常住というわけです。今世で悟れなくても別にかまわない・こんな感じで生きてきました。

難しい話はイヤだ・と言ってるのに結局上の勘文抄のような御文が出てくるわけです

所詮俺は理屈屋なのです・文証(教巻を手ににぎらざらんをば用いるべからず)(ただ経文に就いて、いささか所在を述べん)をだしてつぶやくということです。証拠を出してということです。 仏法を説くとき自分勝手な考え(我見)はダメということです。

めぐり合って今まで頭の中で理解していただけという感じでした 思い出したように時々勤行しては来ました。そのつどなにか問題が発生するわけです。あまり朗々とした勤行はできなかったのです。それなりに解決はするわけです。

母親の葬儀で後に引けなくなり・日蓮の仏法を捨てるわけにはいかない・ということである程度まともに勤行ができるようになったということですね。詳細は省きます。

それで今までとは世の中というか自分というか、見方・感じ方が違ってきていると実感しています。仏教は頭で覚えるものではなく、やるもの・実行・実践するものと思います。

で終活の今たまに来世のことを想って犬と現れて気に食わないやつをガブリとやろうとか、かわいい猫として生まれ美人の胸に抱かれたりとか、今度こそ宇宙飛行士になって他の天体を探索・冒険をしようとか想いを巡らせたりするわけです・ああ楽しい(笑)

人々を救うというのはまったくないですね。俺ってやつは 仏失格です(大笑)