はぐれ日蓮の信者のつぶやき(自分のことその5)

終活といっても、成住壊空の壊の段階に入ったということで、永遠の生命からしたら空(中有)次の成のための準備、活動というわけです。

10歳の時の俺、60を過ぎた今の俺、肉体も考え方も能力も変わってきました。でも今世に付けられた名前・則夫・(改名すれば別・笑)は則夫なわけです。10歳の時の俺・60過ぎの俺・俺はおれなのです。【この俺=我=法身如来・如是体・中諦】が無始無終・永遠にこの世(現実の娑婆世界)に存在する これが仏の悟りであり教えなのです。

如是相・体とか物質的なもの 如是性・性質とか能力とか・は変わるわけです 人間としての如是相とは限らないわけです。人間として生存することは難しい、稀であるということです。

過去世・来世では名前は違うわけです。死んだら(肉体がある・土葬・ミイラ ・肉体がなくなる・焼く・火葬どちらでも)我(如是体・法身如来)はこの宇宙に【空】という状態で存在するわけです。

解りやすく言えば 人間死んだら【空】という状態で宇宙に存在する・溶け込む・ということです。無くなるわけでも、他と混じりあってしまうわけでもないのです。

生きているときでも 我 というのは見えませんよね 肉体というものは仮に因縁和合したもので我の傾向・意向でたえず変化しているものなわけです。この傾向というのは次の成に引き継ぐということです。この辺の業因というのを 【南無妙法蓮華経と唱える】ことで変えていける これが日蓮の教え ということだと思います。

皆さんはどういう生命観・人生観をお持ちでしょうか?

俺は理屈やデス。科学的なものしか信じません。俺は仏教その最高峰たる日蓮の信者になりました。

その生命観をたもち人生(人として生きる)を生きる・過ごしたいと思っています。

妙法蓮華経 この言葉自体に疑問を投げかけている人がいたようなきがします

鳩摩羅什の漢訳とか

真櫃とは認められてはいないかもしれませんが、当体義抄に【至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果俱時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す・・・】

もともとすべてのものには、名というものなどないわけです。聖人・(釈迦牟尼世尊なのか・鳩摩羅什なのか・ほかのだれかなのか)が理をかんじて・妙法蓮華・と名をつけたわけです。

【南無妙法蓮華経と唱えることで因果俱時・不思議の一法にスイッチが入り業因・業果が得られる】

これをただひたすら信じ(日蓮を)今後の人生を過ごしたいと思っています。