はぐれ日蓮の信者のつぶやき(仏法中怨・仏法の中の怨{アダ})

あいつはこうだ、こいつはああだ とか人の信仰上(特に日蓮の)の誤りをつぶやくのが嫌になる時があります。いろんな考えを持ち、行動するのは人それぞれ自由ではないべか。と思ったりするわけです。俺個人的には。確かにそうなんだろうと思うわけです。

でも俺が捉えている仏法(日蓮)から見て間違ったことを言っている人達がいるわけです。そういう考え方とか、人を見ると なんだこいつらは! となるわけです。

何もしないでほっとくのか?何かするのか?( 自分の懈怠・浅識はおきます)

たまたま俺は廣田頼道と世雄偈読誦(方便品の長行)とかの件で知り合ったわけです。

法話とか聞いていくとなんだこいつは!となったわけです。

最近でも(2020年12月1日アップの法話)で彼は一念三千の三千を三千大千世界と語っていましたね。一念三千の三千は三千世間であって空間とかのとらえ方の三千大千世界ではないわけです。【一心(身)一念法界に偏し】とか【一心法界】と勘違いしてるのでは?

【一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いずれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に偏満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし、】(成仏抄)

いずれ日蓮の仏法の教師・トレーナーには不適切な人と思うわけです。

前取り上げた英昭彦君もそうですね!動画NO525みたらほとんどの人はそう思うんでは? 思ってた以上に法門については薄っぺらな人ですね。

 

仏教(仏の教え)には仏法の中の怨・アダというのがあります。

【若し善比丘、法を懐(やぶ)る者を見て置いて、呵責し、駈遣し、挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し、呵責し、挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり】・涅槃経

『呵責』とは誤りを指摘、叱り、責めること。

『駈遣』とは追い払うこと。

『挙処』とは処置・処分をおこなうこと。

俺のつぶやきは 呵責 ということですね。

人を本当に思いやるのであれば、悪く思われても、憎まれても間違いを指摘するべきと思うわけです。

間違いを知りつつ指摘しないのは表面上はいい人であっても、結局無慈悲な人ということですね。

 

※仏法中怨の御文の一つ【我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を灸(やいと)せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし『慈なくしていつわり親しむは即ち是れ彼が怨なり』】開目抄 下

蛇足 開目抄の先の御文の後に【無道心の者生死をはなるる事はなきなり、】とあります。

英昭彦君はどうみても 道心(仏法の生命論を求める心)があるようには見えないですね。  彼の動画での独特の笑いは 仏法の生命哲学が解らない自分に対しての自虐的な笑いかな❓ と思ったりします。

 金をむしり取られている人とか、労働力を供出させられている人達を 一時的に救うことはできても 人々を根本的に救うことはできないのです。

仏教・仏法のトレーナーにはなれないということです。まあ俺から言わしたらなんだけれど(大爆笑)

人間だれしもある意味何をしようと、言おうと自由なんだけれどね。

歴史はどう評価するか  それもどうでもいいか(笑えない・最近あんまり笑えない、酷過ぎる人が多いように思う)

一心一念の御文【此の文は一念三千の法門なり捨是身巳とは還帰本理・一念三千の意なり、妙楽大師(湛然)の当知身土・一念三千・故成道時・称此本理・一心一念・遍於法界と釈するは此の意なり云々。】 御義口伝

一念三千と 一心一念遍於法界 とはイコールではないということです。

 

彼についてはもう一つ 〔一切衆生平等成仏〕 というのがあります。

まるで針のとんだレコードみたいにつぶやいていますね。(大爆笑)

共産主義者が説く成仏論みたくおれには響きます。

三世の生命でなければ、平等にはならないわけです。

今までの生命観を変えたんでしょうか?だったらその旨を懺悔(爆笑)告白しなくてはいけませんね!

私たちの 命 は今世だけ未来世にはいない  というのはマチガイでした というふうにです。 それもできないんでしょうか? 

同じ仏界でも差別(3世間)はあるとおもいます。( 差別→ちがい・違うこと)

おいしいものを食べて天界に浸る人、スポーツで優勝して天界に浸る人・同じ天界でも差別はあるわけです(五陰世間)。 桃は桃、スモモはスモモなわけです(衆生世間)。

 

ほんと廣田頼道もひどすぎますね!基本中の基本がなってないということですね。

日蓮の仏法のトレーナーにはふさわしくない❕ と思うわけです。

※人間の体は、どこか悪く(故障・病気とか)なってそのままにしておくと、他も悪くなり、やがて死んでしまったりするわけです。

信仰も間違いを、そのままにしておくと他にも影響を及ぼし、ダメになったりするわけです。 御書には五臓の譬えがありましたよね。※

 

俺ははずかしながらキーボードを打つのは一本指打法なわけです・早撃ちではないです(大大爆笑)2人の子供はSEなわけです(会社勤め)8歳3か月年下の嫁さんもそこそこのスピードで打ちます。 (俺だけがおちこぼれ)

なので時間がかかります。 途中で休んだりするわけです。 そんなこんなで後で追加したりするわけです。

たまにもうチョットで終わる というときに、消したり・別の画面を出したりするわけです。 で『なんだコノヤロウ』とかパソコンに怒鳴ったりするわけです。

パソコンではなく自分が悪いのに(大爆笑) チョット気の短いところがあったりするわけです。 そういう自分がおかしくて笑ったりするわけです(大大爆笑)   ※