はぐれ日蓮の信者のつぶやき(自分のことその7)

【小欲知足】という言葉があります。仏の境涯がそうだ という思い込みがあり、それなら仏の境涯なんかいらない・マジで本気でそう思っていました。

一生懸命やらない理由の一つだったわけです。 とにかく今はやりたい事をやって欲望をかなえようということだったわけです・(でもそのためにも勤行・唱題は真面目にするべきだったのです)・前にもつぶやいたようにやると必ず何か予想外の問題が起きるのです(これこそ本物の法則ということ)・ でも今は終活のときを迎え何よりもかによりも死んだあと・来世・(今の生活の中で寝て起きてどう行動するか・に相当する)をどうしようかとの思いのほうが大きくなってきたわけです。

悟らなくても・俺は永遠常住・なので安心感があったわけです。

人間死んだらどうなるか?については、今まで何度もつぶやいてきました。戸田さんの生命論に集約されると思います。【 三身常住】ということなわけです。

法華経日蓮・にもとずく捉え方なわけです。 廣田頼道さんはこれとは全く違う生命論を説いているわけです。彼の個人的な考え方なわけです。それを日蓮の仏法だ・などといっているわけです。日蓮の信者・と思っている俺(懈怠、浅識、謗法ではあるが)・にしたら絶対に絶対に許せないわけです。

俺の出した手紙の返信に俺が一念三千をどうとらえているか?とありました。

今までのつぶやきで俺のとらえ方は解ると思います。

たいへん僭越ながら頼道さんは十如是の 相・性・体・にあたる仮諦・空諦・中諦の三諦 についてチャンと理解していない・捉えていないと思います。(人のことは言えないかもしれないが)【空諦】というのは・有るものが無くなるということではない・(有るとも、無いとも、言えないような・存在の捉え方、認識のしかた)ということなわけです。質疑応答その20 これにはあきれるというか笑ちゃいました 空というのは・ない・ということではないのです。ペンギンも大笑いということです。(メール・写真)

まったく頼道さんのとらえ方は、灰色・グレーというわけです・中諦の意味ではない(大笑)

法華経以前の三諦論は法華経とは違うのです。

衆生に有る時には此れを三諦と云い、仏果を成ずる時には此れを三身と云う。一物の異名なり。】ともあります。

それが日蓮の仏法だというのはえらく迷惑だということです。

三諦すらわからないのだから、三身もとうぜんダメ、一念三千もまったくダメということ雑学はいいけど、根本がダメということです。

成仏、成仏というひとがその法則の一念三千の理解が怪しいわけです・笑い事ではないですね。

実践・実験の方法は【三大秘法の南無妙法蓮華経】なわけです。

相性体・の三つは、仏の境涯においては、応身報身法身となるわけです。

相=応身=仮諦 【性=報身=空諦】 体=法身=中諦 

我々は死んだら【空】の状態で宇宙に存在する ということでした。 

我=如是体=法身=中諦=生命 中諦として捉えている・認識している・我が【空】という状態・在り方・存在の仕方でそんざいする。

確かに如是体=法身如来が【空】という在り方で存在するわけです。

本尊抄に【体は義色心を兼ね】【性は唯心にあり】とあり相にも性にも関わっている・バックボーンてきな我は(体)中諦・法身如来ということだと思います。唯心ではないのです。正しい言い方ではないかもしれませんが、我(体)は変わらないもの・性は変わるもの・同じ【空】という状態であってもです。

【己心と心性と心体との三は、己身の本覚の三身如来なり。是を教に説いて云く「如是相(応身如来)、如是性(報身如来)如是体(法身如来)」と。此れを三如是と云う。此の三如是の本覚の如来は、〔十方法界を身体と為し、十方法界を心性と為し、十方法界を相好と為す。〕 この故に我が身は本覚三身如来の身体なり。】

日蓮の真櫃とは認められてはいないかもしれませんが俺は参考にしたいと思っています。

解りやすく言えば 【自分(我)というのは宇宙そのもの 生きていても・死んでも 】ということだと思います。

まあ死んだらとりあえずの肉体はなくなるわけだけど、宇宙自体が自分の体ということだと思います。

 

仏教って面白いですね。 実験証明する価値大いにアリです。

頭で理解してもダメだと思います。 牛乳があって成分とか全部解っても飲まないと味とか味わえないのです。 飲んでみるしかないわけです

もっと解りやすくつぶやきたいけど城聖さんみたくいきませんね。ごめんなさいです。

 

廣田頼道さんには間違いを修正して正しい日蓮の仏法を説いてもらいたいと思います