はぐれ日蓮の信者のつぶやき(くどいけど・本尊について・決定版)

観心本尊抄とか報恩抄以外にも本尊についての御文は有りますよね。

【本尊とは勝れたるを用いるべし。】   とあります。

結論から言えば 日蓮の言う本門(久遠・一時的、今世だけでない、迹門でない・無始無終)の本尊は  【自分自身】  ということだと思います。

【末代悪世の凡夫は何物をもって本尊と定むべきや。答えて云わく、法華経の題目をもって本尊とすべし。】【末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経をもって本尊とするなり。】 問答抄  とあり、まずは・(南無)妙法蓮華経・を本尊ということです。

さらに

【本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の『釈迦』多宝・外(そのほか)の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、】 報恩抄・真櫃

【寿量品に建立する所の本尊は・・・教主釈尊これなり。】ぼん承事(偽書

【本尊とは法華経の行者の一身の当体なり。】御義口伝(偽書

報恩抄の教主釈尊は釈迦ではないですよね、脇士なわけです。

とりあえず【釈迦は本尊】ではない  ということです。

法華経釈尊の父母・諸仏の眼目なり。釈迦・大日、総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり、故に今『能生』をもって本尊とするなり。】 問答抄

などとあり、以上の御文などから【本尊は 妙法蓮華経】 となるということです。

妙法蓮華経とはなんだ❓となるわけです。

【問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾(しか)れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり・・・】

【我が一念を指して、妙法蓮華経と名づくる・・・】【妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり。】

【凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と・・・三世の諸仏の解(さとり)の妙法と一体不二なる理(ことわり)を妙法蓮華経と名けたるなり、】

【所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身これなり、】

【至理は名無し聖人理(ことわり)を観じて万物に名を付くる時・因果俱時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し】 (仏教では我々を一念三千ととらえ分析している)

【月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり。】

などとあり、結局【自分自身・我々本人】ということだと思います。

【我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、】などの御文とも一致するわけです。

本尊抄の【其の本尊の為体(ていたらく)、・・・此の仏像出現せしむべきか。】(立体本尊)

其の本尊とは妙法蓮華経のことですよね。その為体・ありさま、姿・はこうだああだといって仏像としての像(かたち)ありさまを語っているわけですよね。日女御前御返事の【首題の五字は中央にかかり、・・・】(こっちは文字曼陀羅本尊)これも同じですね。

【この御本尊まったく余所に求むる事なかれ。ただ我れら衆生法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におわしますなり。】と続くわけです。

立体本尊であれ文字曼陀羅本尊であれ観心の本尊なわけです。

【観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是れを観心と云うなり。】

【明鏡に向うの時、始めて自具の六根を見るが如し。】観心本尊抄

自分の姿(本当の本尊・妙法蓮華経)を見るのに鏡(立体本尊・文字曼陀羅本尊)があればよく見ることができるわけです。

文・義・意 の中で意の読み方はこうなると思います(義でもこう読めるようなきがする・爆笑)

本門(久遠)の本尊は 妙法蓮華経(己心中の仏性・南無妙法蓮華経・自分自身)ということ です。

身延山久遠寺の立体本尊も大石寺戒壇の御本尊も 久遠の本尊ではないのです!

壊れます、無くなります。

本尊・根本として尊ぶ・ これが板だったり、紙だったり、仏像(何という名前なのか基本的にはわからない・あれが不動明王帝釈天だなどと『名札を付けてくれると解る、笑』・文字だったら解る)だったり、そんなわけないですよね。(物体・物を本尊とする、誤り。)

大石寺では三大秘法の根本とか言っているけどまったくのウソなわけです。

題目も唱えることができません(大爆笑・失礼)幼稚園児でもわかること(道理・理証) 金口相承ともどもいつまでもウソ・偽り はとうりません、あわれ、かわいそう

とおもいます。

楠の半丸太で作ったということでは特別といえるかもしれません。でも力・効力は他の文字曼陀羅本尊と一緒ということです。

日蓮の遺灰は身延久遠寺、日興さんの遺灰は北山本門寺、日目さんの遺灰は京都の今の

実報寺ということだそうで、日蓮の真櫃の文字曼陀羅本尊もあちこちにあるわけです。

※分骨ということで、池上本門寺などにはあるかも?でも大石寺にはない?※

※西→北に修正・御遷化記録と一緒にしてしまいました・お詫び、御遷化記録は西山本門寺(10月19日)※

石山さんは開国して文明開化❓(大爆笑)したらいいんでは!

約750年続いてきて自分のところだけが正しい・正当だというのは今のこの情報化時代 ウソはばれメッキは剥がれる・た・ということです。

宗門の人の多くはすでにこのこと(ウソ・イツワリ)をご存じだと思います。

なにを根本にとるか・歴史はどう評価するか、考えてみたらいかがでしょうか

 

※ 当体義抄・御義口伝などは偽書とされていますよね。でも内容はウソ、間違い、とはならない と思います。 相承とかは偽書を用いてはダメだと思います。

そもそも仏教経典はすべて偽書なわけです❕

お釈迦さまの書いたものは一つもないわけです。途中で進化したり、付け加えたり・ということなんだとおもいます。内容がだいじということだと思います。※