はぐれ日蓮の信者のつぶやき(自分のことその4)

【この世を自由自在に永遠に生きたい】俺の願いははからずも(自由自在とはいかなくても)叶ったようなものでした。【自分=我】というのは宇宙とともに存在して始のない過去から、終わりのない未来に常住する この現実の世界(娑婆世界)で

俺は戸田さんの生命論をすんなり受け入れられました。47年ほどたった今でも本門の本尊のとらえ方以外はほとんど同じということだと思います。

発表から約70年ぜんぜんいろあせていないとおもいます。全ての人に見てもらいたいと思います。

彼の論文で一番印象に残っているのが、〔シラミはのこのこと遊びにはいだしてきた。私は二匹のシラミを板の上に並べたら、彼らは一心に手足をもがいている。まず一匹をつぶしたが、他の一匹はそんなことにとんぢゃくなく動いている。つぶされたシラミの生命は、いったいどこへ行ったのか。永久にこの世から消え失せたのであろうか。また桜の木がある。・・・生命とはますます不可解のものである。〕

この部分です(笑)

俺の小さいころ(小学1年頃・昭和30年代) シラミたかり という人をやすめる(卑しめる・卑下する)言葉がありました。不潔とか貧乏とかの意味もあります。俺は頭から背中にかけてゴミでも落ちていくような感覚があったことを覚えています。おばあさんに頭の毛をかきわけてシラミ取してもらったことも覚えています。俺はシラミたかりだったわけです。 なのでシラミには親しみを感じるわけです(笑)

俺の親父は水飲み百姓の家の七人兄弟の長男でした。その長男が俺です。

親父のすぐ下の妹二人は(叔母)近所の家に飯炊きに手伝いに行き食い扶持を賄っていたそうです。 おしん の世界ですね

俺が小学4年の時チョットしたことで(俺のたった一人の妹が絡んでいる)家を出て新しい生活を始めました。俺は約半年後に引き取られました。

話はとんで、創価学会の座談会に誘われました。その時に責任者の方(学会の教授だった・あとで中学の同級生の父親だと知った)に【日蓮の仏法は絶対なのか?】と問いかけました。答えは【絶対だ】との答えでした。

俺は絶対というものは【宇宙そのもの】それしかないと思っていました。で日蓮の仏法を勉強しようとおもったわけです。 創価学会の中で。