はぐれ日蓮の信者のつぶやき(仏界への道・十如是)

自然科学とかがどんなに進歩、発展しても我々の生命というのは解らない❕という理由の一つに【十如是・三諦】というのがあります。

自然科学というのは基本的に、物質・物体について研究するということですよね。

仏教でいう【仮諦・仮に因縁和合したもの】という分野・範疇なわけです。

NHKさまよえる魂の行方 でも取り上げた意識の世界‣科学は【空諦・性分、性質など】の分野なわけです。

これらは人間の部分的な事柄なわけです。全体ではない❕ということです。

仏教においても【法華経】以外の経典・経文は仮諦、空諦のことを説いたものなわけです。

仏教を研究・学ぼうという人はまずこの事を知るべきだと思いますね。

『仏教を現代に生かす』法華経以外では肉体、精神の範疇の部分的なことしか生かせないわけです。 

仏教には 仮諦・空諦のほかに【中諦】というのがあります。

 

我々人間(人間だけでなくすべてのもの)という存在の捉え方・認識の方法に【十如是】というのがあります。

如是相→物質的なもの・仮に因縁和合されたもの・肉体・絶えず変化する

如是性→性分・性質・感情・意識など・絶えず変化する

如是体→相・性・に関わりバックボーン的な存在(我)・変化しない

この三つを本体・基本に如是力・作・因・縁・果・報の六つを加えこの九つの要素がバラバラではなく融合・一体になって(如是本末究竟等)存在している・と説いているわけです。

いかに優れているか❣ということがわかると思います。

いずれ自然科学等の帰納的な考えでは人間の生命というのは解かるわけはないのです❕

 

中諦・我(法身如来)の部分→久遠・仏界・衆生本有の妙法を悟る(頭で認識することではない)方法とは・仏界への道とは❓

 

【夫れ無始の生死を留めて此の度(たび)決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生所本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり、文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名(なづ)く故に此の経(妙法蓮華経)を諸仏の智慧とは云うなり】・一生成仏抄

 

【他事を捨てて、余行に渡らない・南無妙法蓮華経と唱うべし】などなど

 

いずれ末代幼稚の凡夫の俺らは〔南無妙法蓮華経と唱え奉る〕ということなんだと思いますね。これが 仏界への道 なんだと思います。

あとは歩くだけですよね・車とか新幹線とか飛行機があればと思うんだけど(超大爆笑)あるという話は聞いたことないですね❕自分で歩くしかないということなんだと思います。

 

妙法蓮華経(仏界)に南無する 仏界に帰る・仏界にもとずく(命)

【南無と申す字は敬う心なり・随(したが)う心なり】内房女房御返事・身延

【南無と申すは天竺の言葉にて候。漢土(中国)・日本には帰命と申す。帰命と申すは、我が命を仏に奉ると申す事なり・・・古(いにしえ)の聖人・賢人と申すは命を仏にまいらせて仏になり候】白米一俵御書・身延

 

妙法蓮華経(仏界)に南無する と宣言する・行動する→南無妙法蓮華経と唱える

自分の思いを声帯を震わせて音声にするわけです。 声仏事をなす❣

 

俺はこういう難しい理屈っぽい話は嫌いではないんだけれど、あまり呟きたくはないですね。自分の考え というのを確認する・という部分もあるわけです。

まして俺なんかは人の手本とかという人間では全くないわけです。

今世をどう生きるかは人それぞれなわけです。

俺はただ 日蓮の信者 なだけです❣

教学は仏界の縁ではない わけです❕ 声聞・縁覚・菩薩→仏という図式ではないのです。

十界互具なわけです❣貧乏人でも、馬鹿でも、カタワ(不具者)でも仏の境涯を得られるということです❣

 

❣妙法とともにあれ❣               南無妙法蓮華経