はぐれ日蓮の信者のつぶやき(城聖さんの生命論4・三身常住)

法・報・応・の三身常住 

法身は生命、報身は心、応身は肉体】という捉え方・言い方もあります。

【・・・信じられないからウソだともいえないし、知らないからないともいえないであろう。真実の仏教が説くところの三身常住は生命の実相であって、これこそ真のわれらの生命の状態である。吾人が、いまここに、この境涯を説くと言えども、読者がこれを了承するためには、日蓮大聖人の所立の三大秘法の仏法に帰依しなくては、絶対に証得することができえないであろうということを附言しておく。結論的にいうならば、吾人がいま、もつところの肉体そのものが、子供のときより老人にいたるまで、ある傾向にしたがって変化するごとく、われらの今日の肉体と精神が永遠に変化しつつ実在することが、法報応三身の常住で無始無終の生命観である。・・・(肉体は変化する・ある一定の傾向、本質があって変化する)・・・ 生命とは心肉不二にして肉体にもあらず心にもあらず、しこうして、肉体と精神にたえず反応を与えるものである。目に見えないで存在し、しこうして、目に見える肉体と精神と運命とに強くはっきりとにじみ出るものである。・・・(次の世の活動場所はこの娑婆世界ということ)・・・世間にいう生まれ変わってくるという、あのことかと思うであろう。事実はごく似たものであるが、生まれ変わるとなれば、ぜんぜん別個の人間とも考えられる。しかし、ぜんぜん別個ではありえないのである。では同じ人かというに、同じ人でもないのである。あたかも、七歳のAなる人と四十歳のAなる人とは物質構成、精神活動、運命等はぜんぜん別個でありながら、七歳のAと四十歳のAとが、同一なりと断ずるがごときものなのである。今世のAと来世のAとは、生命の連続においては同一生命の連続であって、肉体にもせよ精神にもせよ運命にもせよ、今世のそのものではないことはもちろんである。それは七歳のAの場合と四十歳のAの場合と同様である。七歳のAが四十歳にいたるまで生命の連続であると同様に、肉体も、精神も、運命も、変化の連続をなしたごとく、今世の生命が、来世の生命にいたるとしても、今世の肉体・精神・運命が来世へと変化の連続をなすことはとうぜんである。  ここに大きな疑問が一つ生ずる。死んで火で焼いて粉にして、なくなった肉体が、死後までその肉体の連続であるということは、あり得ないではないかということである。  そこで、肉体にもせよ精神にもせよ、目に見ることのできない、しかも厳然たる存在の生命の反映であると、さきに述べたことを記憶より呼び覚ましてもらいたい。 さて、その前に、いかような状態において生命が来世に連続するかという問題を述べてみよう。われらが死ねば、肉体の処分にかかわらず、われらの生命が大宇宙の生命へ溶け込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。この大宇宙の生命体へ溶け込んだわれわれの生命は、どこにもありようがない。大宇宙の生命それ自体である。これを「空」というのである。「空」とは存在するといえば、その存在を確かめることができない、存在せぬとすれば存在として現れてくるという実体をさしているのである。「有る」「無い」という二つの概念以外の概念である。たとえてみれば(あなたは怒るという性分をもっていますか)と問われた時に(持っております)と答えたとする。それなら(その性分を現わして見せてください)といわれても、現わしようがないから(無い)と同様である。(ありません)と答えたとしても、縁にふれて、怒るという性分が現れてくる。かかる状態の存在を【空】というのである。われらの死後の生命も、この空の状態の存在である。されば、縁に触れて五十年、百年または一年後にふたたびこの娑婆世界に、前の生命の連続として出現してくるのである。さて、その生まれ出た肉体は、過去の生存、過去の死の状態をとおして連続してきた生命を基として、宇宙の物質をもって構成されてくる。時間的の差異はあったとしても生命が連続である以上、肉体も精神も運命も、過去世の生存の連続であると断ずることができるのである。・・・生命が過去の傾向をおびて世に出現したとすれば、その傾向に対応して宇宙より物質を集めて肉体を形成する。ゆえに過去世の連続とみなす以外にないのである。このように、現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙の生命へと溶け込み、空の状態において業を感じつつ変化して、なんらかの機縁によって、また生命体として発現する。このように、死しては生まれ生まれては死し、永遠に連続するのが生命の本質である。

 

生命=法身如来=我(われ)ということで 如是体 中諦 ということだと思います

 

一身即三身なので法身が常住ならば、報身も応身も常住であり永遠ということ

寿量品には三身常住が説かれているということです。

まさしくこれが俺の生命論なのです  俺の原点(原典)なのです 

久しぶりにとうして見たけど約46年間全然ブレてないし経文も・義・ぐらいまでなら読めるようになっている 

日蓮所立の三大秘法については 本門の(久遠)本尊は内なる妙法 【文字曼陀羅本尊の元】  

本門の題目はただ(余行に渡らない)南無妙法蓮華経と唱えること(事の一念三千)

戒壇についてはいまのところは(私見日蓮を信じて題目を唱える所

ととらえています

廣田頼道さんにはぜひ読んでもらいたいものだと思います

自分の現実の生命というものをよく観察するべきと思います

手紙では牛乳で例えました。最終的には頭ではなく感得ということだと思います