はぐれ日蓮の信者のつぶやき(自分のことその2)

人間死期が近づくと昔のことがよく思い出される・と言われますね 俺もそうなのがや・(大笑) でも自分のことを書くためなんだ と言い聞かせたりしてます (笑)社会に出て勤めた会社の慰安旅行で函館に行ったとき(マイクロバス・岩手から青森フェリーに乗って)修道院見学の場面があって俺は興味がなかったのでバスの中にいました。もう一人車に残った人がいたのです。お前なんでいかないんだ・と聞かれました。それで・キリスト教はこうだ、ああだ、とうん蓄を傾けたのです。勢いずいて他の宗教とか哲学などもチョットだけ語ってしまいました。お前そういうの詳しいな・と言われそのときはそれで終わり帰ってきたのです。

帰ってきて間もなく、お前これを読んでみろ・と言われ渡されたのが 創価学会で出していた【緑色の・折伏経典】でした。 これが【運命の一冊】となったわけです。

今も手元にあります。46・7年前のことです。

法華経日蓮の御文・を引き合いに出して 戸田城聖さんが生命論を展開していました。

【これだこれが俺の探していたものだ】となったのです。

俺は【永遠に生きたい】・仮に人生80年幸せといえる生き方ができても死んでしまったらかなり・凄く虚しい と強く思っていました。科学・技術がいくら発展しても永遠に生きるということは無理だろうとも思っていました。 さらに自分とは何ぞや・宇宙とは、死とは? 科学がいくら進歩しても方法論的に(帰納法)解決することは無理だろうと思っていました。 演繹的(悟り)に解決の方法がある(東洋的)という記事は見ていました。まあそれが仏教というわけです。

中学・高校時代は性欲を抑えつけたりなどして周りからは変人とみられていたと思います。親もあまり好きではなく家をでて一人で独立して暮らしたかったけれど、その元気もなかったということです。中学の時気に食わない先生を質問攻めにして泣かして教室から追い出してしまったこともありました。(理科の先生)何もしらないくせに先生ずらするんじゃない・求めている内容が深かったのです・今ではそのことは凄く反省しています。 佐藤先生大変大変大変申し訳ありませんでした。深く心からお詫び申し上げます。

高校の時に盛岡一校から数学の先生が転任してきました。自分の子供が一校に入るからと聞きました。テストの時に今まで教師生活をしてきて誰も100点取ったことがないテストをだすとぬかしやがったのです。何のことはない答えが2つある問題がでたわけです。一人だけ正解したやつがいたわけです。ザマアミロというわけです。俺なわけです。50年ほど前のことです。今では小学生でも解ける子もいると思います。続く話があるのです。俺は次のテストを白紙でだしたのです。そのあと母親が精神病院に行かないか・と言ってきました。自分の息子もわからないのかや・望むところ・俺のことをどう評価するか・ということで喜び勇んでいったわけです。

盛岡には2つ病院があって大きいほうに行ったという記憶があります。院長先生と話をしたわけなんだけれど俺はジャンジャク・ルソー とかニーチェとか引き合いに出して人生論とか宇宙・世界などの謎・解らないこととかをメインにして話をしたわけです。なんと先生はジャンジャク・ルソーを知りませんでした・画家のピエール・ルソーは知っているというのです。まあ話にならないということです。結論は あなたの息子さんは変わっている んだけれど精神異常とかいうのではない ということでした。

それから30年以上たってから精神病院で診てもらえというのは白紙でだしたりするから学校から呼び出されて担任の先生から言われたこと と教えてくれました。

なーんだとおもったわけです。

授業の内容には全く興味がなく、授業時間に図書室に行ったり学校の外にいったりとかしていたのです。呼び出されて注意されることもなく(俺個人には) 卒業に際しても進学先とか、就職先とかの話もなく 卒業したら 土方(作業人夫) でもやるとか言っていました。(高校在学中にはアルバイトでしていた)母親は先生は大学はどこでもはいれるといっていた と言っていました。 

先生を先生とも思わない・先生方もかんじていたかも

ペーパーテスト100点近くとったにもかかわらず、赤点付けられたこともありました・倫理社会です(笑)

母親は 人めわるい(世間体)ということで知り合いのつてで地元の弱電工場を探し勤めないかと言ってきました。 電気は嫌いではないし無気力なところもあり ま いいかということで件の会社勤めを始めたのです。