冒頭から 『実は、死にましたらどうなりますかと 解かりませんよ わかりませんから それだけのことなんです』 これを見て・聞いて思わず声を出して笑ってしまいました。
で大変正直な人だなあ と思ったわけです。
※途中からなんだこいつは!仏教・仏の教えというのを知っているのか?まったく話にならない‼と思ったわけです※
仏教を学び知識はたくさんお持ちなお方とお見受けいたします。
でも仏教は生命を説いたもので死んだらどうなるのか?その答えも説かれているわけです。
それを解らない 何を学んだのか と思ったりするわけです。
確に悟った人でなければ解からないことかもしれません。でも俺のとくいな言いわけ・牛乳を飲んだことが無くても 白いとか液体だ とかは語れるわけです。
彼は 解かる方法が一つだけある 死んでください、そして教えてください というようなことを言っていましたね。 ここでも笑ってしまいました。確かにその通りと思います。死んだ人には聞けないということなのでしょう。
ほんと仏教の基本が解っていない人 ということです。
仏教は【死んだ事がある人が説いた教え】 ということです。
この基本も分かっていない人の法話俺的にはコッケイに思えるということです。
確かに正しい部分もあるわけです。でもそれは九法界(地獄・・・菩薩)のことなわけです。 彼は仏界(法華経)を認めていない・とか思うわけです。
確かにくどいけど悟った人(仏)でしか解かると言えないかもしれません。
まあナマケモノではぐれ者の俺ではあるけど 自称・日蓮の信者 としては一言二言
つぶやきたくなるわけです。
※「来世があるかないかそんなの解からない、どうでもいいじゃないか・現世を正しく生きなさい」の彼 自分の学んできた仏教?それが膨大な経典の中でどの位置にあるのか? とか勉強しなおしたら! 法華経(仏界)の勉強・実践 一念三千の法門を勉強してみな❕ と申し上げたい※
※仏教はこうあってほしい ということで作り上げられた物語ではなくて こうなんだ という悟り を説いたものということです❕※
法華経は仏教ではないのか?俺はお釈迦様が説いたものでなくともインドになくても
仏教・仏の教え と捉えています。
無量義経・法華経・涅槃経は仏界(自行・うつつ・実・の教え) 他の経は九界(化他・夢の中・権・方便・の教え)
【夢は仮に有って体性無し故に名けて権と云うなり、うつつは常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す】
【生死の夢は権(かり)にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、本覚のうつつは実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う】
我々の生命は 有るものでも無いものでもなく、自他でも出でも没でも生滅でも此(ここ)でもあっち(笑)でもなく得るものでも失うものでも去(さる)でも来るものでもない存在?ということです。
こんなの解かるわけないですよね!信じられないですよね!
どんなに頭のいい人でも無理ということです。
時間、時ということで
今の我々の文明では重力と時間の関係性として重力が強いほど時の流れが遅いと明らかにされていますよね。宇宙ステーションの人は地上の人より早く歳をとるわけです(大爆笑)信じられますか?信じられなくてもこれが真実ということです。【過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり】魅力的な御文ですね。
仏界を説いた法華経には
【我実成仏己来、無量無辺百千万憶那由他劫】【常住不滅】【我常在此娑婆世界、説法教化】 などなどあり
人間死んだらどうなるか? この答えは?
そもそも死とは【方便現涅槃】ということで生命活動の変化相ということです。
※くどいけれど 昨日誰それとHした(爆笑)、一昨日誰それさんが死んだ、七日前誰それさんに子供さんが生まれた、という出来事は実際現実に有った・有ることなわけです。
仏の教えではこれらの出来事は 【生死の夢は権(かり)にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想という】・【夢は仮に有って体性無し故に名けて権と云うなり】
ということで実ではなく 権(仮・かり・夢)ということです。※
※実のことを説いたのが法華経というわけです。 権のことが説かれているのが他の経典ということです。 仏と成(ひらく)るには法華経しかないわけです※
日蓮の信者さん皆さん毎日読む経文に書いてあるわけです。
我々の命は常住不滅ということです。これを感得・悟りたくて読経、唱題するわけです。
これを知るには全宇宙には一つの方法しかないと仏様は言っているわけです。
信じようと信じまいとこれが仏の教えです。
肉体がなくなるのに常住不滅はないべや! というかもしれません。
肉体(如是相)はそれぞれある傾向によって仮に因縁和合されたものなわけです。
肉体を構成している物質は何年かの内にすべて入れ替わっているということです。
死んだら早い人は瞬時に受精卵が如是相となるわけです。でない人はいろいろということなんだろうけど一言でいえば宇宙そのものが如是相ということだと思います。
今の自分・昨日とか10歳のころの自分を分析してみればある程度察しが付くと思います。肉体(如是相)とか好みなど(如是性)は変わっているわけです。でも俺(如是体)は俺(我)なのです。
本当かどうかというのは実験するしかないわけです。
死ぬということではないです(大大爆笑)
実験しない人はウソだとか本当だとか結論は出せないと思います。
まあああだこうだとか言うのは自由なんだろうけど(爆笑)
あと我々は誰が決めたんではないだろうけど夜眠りますよね(夜寝ないで一生懸命活動して昼寝る人もいるかも・爆笑・でも必ず寝るわけです)
この辺も我々の生命を考えるヒントになるかもと思ったりします。
寝ているときの自分 これを分析してみる ということです。
今年(今日)3月15日は俺がボストンバッグ一つで仙台にでてきて45年となります。
着いてすぐ職安にいき仕事を決め、不動産屋にいき、アパートをきめ、布団を買い、というかんじで動きました。午後からは小雪がちらつき肌寒い日でした。割と必至だったんだね よく動きました(爆笑)
カーテンもない、敷き布団・かけ布団、だけ枕はなしという シンプルなかんじでした。 日蓮よりははるかにましでしたね! トイレもあるしフロもあるし(どちらも共同だけど) 雪は入ってこないし(笑)
次回は日蓮の誕生日かな? 800歳