はぐれ日蓮の信者のつぶやき(城聖さんの生命論3・生命の連続)

城聖さんの生命論は全ての日蓮の信者とか・生命 いのち 人生を考える人に読んでもらいたいと思います。 信じるとか信じないとかは別としてです。

生命の連続

【われわれの心の働きをみるに、喜んだとしても、その喜びは時間がたつと消えてなくなる。・・・心のどこかへ溶け込んでどこを捜してもないのである。しかるに、何時間か、何日間かの後、また同じ喜びが起こるのである。また、あることによって悲しんだとする。何時間か、何日か過ぎてそのことを思い出して、また、同じ悲しみが生ずることがある。人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、まえの悲しみと、あとの悲しみとりっぱな連続があって、その中間はどこにもないのである。 同じような現象がわれわれ日常の眠りの場合にある。眠っているあいだは心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。眠った場合には心がなくて起きている場合には心がある。あるのがほんとうなのかないのがほんとうか、あるといえばないし、ないといえば現れてくる。このように、有無を決定できないとする考え方を、これを空観とも妙ともいうのである。このように、・・・心とか心の働きとかいうものを思索し、そのうえに仏法の哲学の教えを受けて、真実の生命の連続の有無を結論するのである。】

【宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする、死んだ生命はちょうど悲しみと悲しみとのあいだに、なにもなかったように、喜びと喜びのあいだに喜びがどこにもなかったように、眠っているあいだ、その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命に溶け込んで、どこを捜してもないのである。霊魂というものがあってフワフワ飛んでいるものではない。また、大自然のなかに溶け込んだとしても、けっして安息しているとはかぎらないのである。あたかも、眠りが安息であるといいきれないのと同じである。・・・安息な人、夢にうなされる人、浅い眠りに悩んでいる人など・・・この死後の大生命に溶け込んだ姿は、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば、しぜんに会得するであろう。この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目にうつる生命活動となって現れてくる。ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動状態を、きょうもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は過去の生命の業因をそのままうけて、この世の果報としていきつづけなければならない。 かくのごとく寝ては起き、起きては寝るがごとく、生まれては死に、死んでは生まれ、永遠の生命を保持している。その生と生のあいだのじかんは、人おのおの異なっているのであるから、この世で夫婦親子というのも永遠の夫婦親子ではありえない。・・・】