はぐれ日蓮の信者のつぶやき(自分のことその3・城聖さん生命論1)

戸田さんの生命論は 生命とは不可思議なものという書き出しで始まり・自分の宗教体験を語り・その体験を元に法華経の生命観に立って、生命の本質について述べています

譬喩品、化城喩品、寿量品の文証を引いて仏教は三世の生命を大前提として説かれている事 さらに日蓮においても 開目抄、撰時抄などを引いて三世の生命が根本の考え方としています。

【三世の生命なしには仏法はとうてい考えれないのである。これこそ生命の実相であり、聖者の悟りの第一歩である。しかしながら、多くの知識人はこれを迷信であるといい、笑って否定するであろう。しかるに、吾人の立ち場からみれば、否定する者こそ、自己の生命を、科学的に考えないうかつさを笑いたいのである。およそ科学は、因果を無視して成り立つであろうか。宇宙のあらゆる現象は、かならず原因と結果がそんざいする。生命の発生を卵子精子の結合によって生ずるというのは、たんなる事実の説明であって、より本源的に考えたものではない。あらゆる現象に因果があって、生命のみは偶発的にこの世に発生し、死ねば泡沫のごとく消えてなくなると考えて平然としていることは、あまりにも自己の生命に対してむとんちゃくな者といわねばならない。いかに自然科学が発達し、・・・かかる現実の差別には、かならず、その原因があるはずであり、その原因の根本的な探求なしに、解決されるわけがないのである。】

さらに経文を引いて【自分の生命は現世だけのものではなく、また、悟りも現世だけのものでなくて、永久の昔からの存在である・寿量品】【真実の生命の実相は無始無終である】【凡夫のわれわれの姿自体が無始本有の姿である。瞬間は永遠をはらみ、永遠は瞬間の連続である。】

【生命とは宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、あとから偶発的に、あるいは、なにびとかによってつくられて生じたものでもない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの専有物とみることも誤りである。・・・生命自体は宇宙とともに本有常住の存在である】

生命の連続について

【方便現涅槃】 死はひとつの方便であると説かれている。たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的から見れば、たんなる方便である。人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。そのように、人も、老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便によって若さを取り返す以外にない。

【仏法の極理は一念三千であるが、死後の生命もまた、一念三千との関連において解決されていることはいうまでもない。】 

三身常住】などもかたっています これは次の機会に

当時は経文についてはチンプンカンプンでした 

この生命論に取り込まれてしまったのです