逸れ日蓮の信者のつぶやき(廣田頼道さんへの手紙・その1)

廣田頼道さんへの手紙

ここ数ケ月俺の意見を言うべきかどうか悩みました 俺は懶惰懈怠の人間であって人に意見を言えるような人間ではありません けれども仏教ではどうすべきか あるべきか と考えたときにやはり言うべきだと思いペンをとりました。自分とはなんぞや人間とは死とは生とは 私は仏教の中にその答えがあると思っています「我実成仏己来 無量無辺百千万憶那由他劫」「我常在此 娑婆世界 常説法教化」我々の生命というものは初めのない過去から終わりのない未来まで生死という変化相を現じながら(方便現涅槃)続くもの なくなるということでもなく 我ということが説かれていて他とは一緒になるということはない ということだと思います ここにおいて差別がある 例えば貧富とか病気健康体などなど の説明にもなります そしてその場所は西の架空の世界でもなく天の上というやはり架空の世界ではなくてこの現実の娑婆世界ということです十歳のAという人が五十歳になって肉体も考え方も変わり100Mを14秒で走れたのが17秒ぐらいかかったり能力も変わります でも同じAという人ということです 今世においても刻一刻と変化します 昔宮本武蔵という人がいて今世に人間として現れているとします肉体も考え方も能力も変わっているということです

剣の達人とはかぎらないわけです 名前も変わっているわけです けれども宮本武蔵と呼ばれていた人なわけです いずれにしても仏教の根本は三世の生命ということですこれを離れて捨てての仏教はありえません 我ということがあってAと呼ばれていた人は死んでもなくなるわけではないしBという人になるわけでもありませんあくまでAという人はAということで継続するわけです ただ人間として継続するかというとそうではなくて人間として継続するということは稀だということです