はぐれ日蓮の信者のつぶやき(おなじはてなブログ・日蓮正宗のススメを見て)

昨日があって今日があって一日しかたっていないのに、昨日は2020年・今日は2021年ということです。

今日晩飯のとき控えていた日本酒を飲みました。すごく美味しかったです。すごく気分もいいです。 一年ぶりに下の息子が帰ってきたせいかもしれません。

そのせいか(酔った)チョットだけでも つぶやこう かなと思いました。

次のつぶやきのタイトルは 宗教 にしようかなと思っていました。

でもたまたま、おなじはてなブログの【日蓮正宗のススメ】の

『現代において仏法とは、戒壇の御本尊様のことであり、日蓮正宗門家のことであります。』

これを見ておもうことがあってチョットだけつぶやきます。

戒壇の御本尊様 これの文証は?ないですよね! 二箇相承、百六箇抄、本因妙抄などは偽書とされていますよね。

理証 物体を本尊とする誤り。

【文無く義無きは信受すべからず】【仏説に依憑して口伝を信ずること莫(なか)れ】

立正観抄 身延

みなさん俺なんかよりはるかに、いろんなことをご存じなんだと思います。

結構参考になることがあります。

でも根本がズレていますね!

大石寺貫首さんも同じですね!八十万(一億人でも百億人でも同じ)信徒のトップかもしれないけど、【法華の心を知れる人】ではないわけです。

哀れと思います。 日蓮の仏法ではないわけです。

 

※俺ははぐれ者なわけです・どこの組織にも属さない(一人ぼっち・でも不自由は感じない)でも日蓮の仏法からは、はぐれてはいない! と自負しています。

でみなさんほとんどの日蓮の信者とかいう人たちは、日蓮の仏法からははぐれているわけです‼ 笑えないですよね。

ことに・特に【本尊】 根本として尊ぶもの に迷っているわけです。

石山(大石寺)みたく 戒壇の御本尊様 が根本とか(他の文字曼陀羅本尊も同じ)

文証もない(相伝ということをもちだす・口伝を信じるな)、道理からも外れている( 戒壇様ができる前はどこに根本があったのか?いずれは無くなるわけでそのあとの根本はどこにあるのか・久遠{本門}ではない・題目も唱えれない)わけです。

こんな簡単なこともわかっていない・解らないわけです。

盲信、とか狂信 の類ですね。

 

俺の捉えている本尊とは【内なる妙法蓮華経・言い換えれば、自分自身】

ということです。※(自分の生命・いのちということ)

久遠(本門)・三世常住ということです。 まえのつぶやき参照

御文も結構ありますね。

 

いくらその信者の数が多くても、有名な人がいても、社会的に地位が高い人がいても

間違い は間違いなのです。(俺の尊敬する戸田城聖さんが言ったにしても)

俺はひとりぼっちの はぐれ日蓮の信者 なわけです。

でもこれまでつぶやいてきたことは、浅いかもしれないけどずれてはいないはずです!

ひとりぼっちのはぐれ者のつぶやき でも日蓮からははぐれてはいない! です

川の上に住む者という名前(名字)・上川原・をもらったので濁れない、濁るつもりもない・とか言ったら笑われましたね(大爆笑)やっと笑えた(爆笑)

(1月5日追加)※

 

 

でもいずれ理屈で どうだこうだいってもしょうがない 自分の思う方法を実行して現実にどうなるか 

ということだと思います。 (現証)

今日(いま)よりは此の事・理屈(文証・理証)より実践(現証)・ということを心掛けて過ごしていこうと思います。

日蓮、仏法をこころみるに、道理と証文とには過ぎず、また道理・証文よりも現証には過ぎず。】三三蔵祈雨事 身延

 

※今のこの時日蓮の仏法の実践とは、読経・唱題(勤行)これをキッチリやることだと思います(これがある意味一番難しい)

 それでどういう生活になるのか・境涯になるのか ある意味これだけだと思います。 日蓮の仏法は正しいのか?(他の人の体験は別として、自分自身で確認する)

  それと獅子身中の虫の退治は必要かなとは思います。(同じ日蓮の信者同士で言い争っている)世の中の人はその辺のことを見ていると思います。 頭(あたま)数だけの信者を増やすということよりもです!自分たち自ら正しい日蓮の仏法を実践(自行)をするということです。※

※くどいけど俺みたいなやつがいうことではないかもしれないけど、今日蓮の宗門(学会なども)がやるべきことは、外に広めることではなく、内なる充実・整備ということだとおもいます。何が正しくて、間違いなのか?お互いすり合わせて答えをだすべきとおもいます。本当に日蓮を信じるなら!ニセ日蓮の信者が大勢いるような?(苦笑い)※

間違った・ズレている日蓮の仏法を広めるのは恥ずかしいことだと思う(大石寺みたく

物体を本尊とするカルト・そのことを解ってもいない)

 

※人に入らねが(入会)と勧誘するより・はいらせてけねがと・自ら入会を希望するような魅力のある組織を作るべきと思うわけです。 そういう組織でなければそもそも存在する意味はないと思います。※

それで自然と信仰が広まる(広布)ということだと思います。

 

上のつぶやきは【摂受・折伏時によるべし】佐渡御書 の時の読み方をまちがったつぶやきかもしれません⁉

言い訳かもしれないけど、一時的・部分的?(苦笑)ということで今の時代は基本的に仏教を広める方法は【折伏】ということだと思ってはいます。

開目抄下の【邪智・謗法の者の多き時は折伏を前(さき)とす…日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし。】  ということですね。

組織はそうであって 法 については邪義を折り正法に伏せしめる ということです。

(2月25日追加)