はぐれ日蓮の信者のつぶやき(日蓮の信者の資格)

うちの近く(宮城岩沼)では桜も散り、蝶も飛び交う姿も見受けられる季節となりました。2021年も三分の一が過ぎ去り時の流れというのを改めて考えてしまう今日この頃です。セミが鳴いていたり、雪が降ってきて慌ててタイヤ交換したり、はたまた雫石にいたころトンボを追いかけていたことなど、ついこの間の事・いや随分昔の事だ、とかの想いに耽る時があります。 こういった出来事を、夢・権(かり)という仏教(仏の教え)

この今のこのからだ(肉体)を仮のもの・仮諦・(仮に因縁和合したもの)・如是相・応身如来・という仏教・仏の教え

 時というのを【過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり】というなど凄く心が魅かれますね。(仏の教えには)

 

日蓮の信者の資格』などというのは俺的にはどうでもいいこと なんだけれどもここで言っておきたいのは 学会とかお寺とかの組織、グループなどに属さない はぐれ者は日蓮の信者の資格はないのか? ということに対してチョットだけつぶやきます。

 

俺はどこの組織にも属さない、近くには仏法を語る相手は誰もいない全くの一人ぼっちのはぐれ者です。(基本的に求めていない)でもまったく不自由、不満などは感じてはいません。誰からか法門・教義などを聞きたいとかは全くないです。知っててそうなのかというわけではないです。化義(作法とか)などはほとんど知りません。

こんな俺なんだけれども 日蓮の信者なんだ❣ という資格は十二分にあると思っています。

ある意味日蓮を信じているという人は誰でも 日蓮の信者の資格 があると思います。(爆笑)

とは言っても

 

日蓮の教えというのは この世には仏界(妙法蓮華経)というのがあって、それにもとずく(南無・帰命)生き方をするべきだ!

【南無妙法蓮華経と唱える】ということ。

だと思います。

なので日蓮を信じ 南無妙法蓮華経と唱えている人 は日蓮の信者という資格のある人

なんだと思います。(教学は有るに越したことはないが、無くてもかまわない)

【信は理を求め、求めたる理は信を深める】

という言葉はあるけどね。(苦笑)

読経の内容は各門流によって違うみたいですね。 この辺はおきます。

基本は題目を唱える ということだと思います。

ということで題目を唱えない人(学会員であっても、お寺の信者?さん・法華講員であっても)は

日蓮の信者という資格はない ということだと思います。

信仰・宗教というのは人生に対する考え方(哲学)プラスそれにもとずく実践が伴うことだと思います。

 

石山(大石寺)みたく戒壇の御本尊(木・物体)が根本として尊形するものだ!という日蓮の教えにはない、まったく怪談のような(超爆笑)法をとく宗門の人たちとか、

日蓮より池田大作とか組織を上にもってくる創価学会の人たちとか、 日蓮の仏法を理解できずに自分勝手な法を語る廣田頼道などなど 日蓮の仏法からはずれている・はぐれている人達(はぐれ日蓮の信者)・超大爆笑・ であっても題目を唱えている人は 日蓮の信者の資格はある ということだと思います。

 

まあ常識的な話として、間違いだときずいたらその間違いを直すべきだと思います。

大石寺戒壇様を破折するのに『二種類の三大秘法』を作り出さなくても

【題目を唱えられねべ・戒壇様は】【物体・木を本尊とするのか⁈カルトだべ!】

これだけで充分だとと思います。 理証ですね 文証より大事(上)と云う事。

小学生いや幼稚園児でも解る‣判る事だとおもいます⁉

 

仕事の量がめっきり減り、時間に余裕ができた最近はよっぽどのことがない限り朝の勤行は欠かさない(夕方は欠かすことが多い・爆笑・苦笑)俺は 日蓮の信者の資格有り だと思います。 仕事とか普段の生活でもなにか問題とか結構発生します。でも理想的な解決が多いですね。

 

 

どこの組織に属さなくても 一人ぼっちでも 日蓮の信者の資格 は有るということだと思います。

仏の教えには 【仏法中怨】【与同罪】というのがあります。

俺はただただこの教えに従い恥をしのぎこのブログを始めたのでした。

 

このすばらしい人の生、極力楽しみながら残りの今世をおくりたいと思います。

 

妙法とともにあれ❣