はぐれ日蓮の信者のつぶやき(自分のことその9)

2020年3月15日は俺が仙台に出てきて、まる44年ということになります。故郷の岩手では家(両親)の反対で、学会に入会できませんでした。約2年半ぐらいの内徳信仰という状態だったのです。一応故事に従って三度正式に親にお願いしました。でダメだったのでボストンバッグ一つ(本が三分の二・衣類が残り)と10万円ほどの現金を持って出てきたのです。

お昼ごろ仙台駅に着いてタクシー乗り場で職安までといったら、運転手さんは、こうこう行けば行けるよ とタクシーに乗せないで道順を教えてくれました。(笑)

よっぽど 貧乏くさい田舎者の家出人 に見えたかもと後で思いました。荒町の佛眼寺の近くということです。 歩いて30分ぐらいかかったのかな。 で中江(幸町)にある会社を紹介され、面接を受け、明日からということで決まり、すぐ不動屋さんを尋ね、アパートを借りて、布団を買い という感じで何とか明るいうちに格好をつけたというわけです。会社からお金が入るのは約一か月半後ということでその間敷き布団と掛布団だけ(カーテンも無し・枕も無し・毛布も無し) 半月後ぐらいに曼陀羅本尊が下付されたのでそれを安置?(収納)する仏壇とも呼べないような小さな厨子とそれを載せる木の箱(ホームセンターで買った)が増えた という我が住まいでした。5~6年住んだのかな 風呂、トイレ共同ということです。お金はもう何千円しか残りませんでした。会社までは歩いて30分~40分ぐらいのところでした(旭丘)

仕事の現場が【めしのはんだや】の近く(歩いて15分ぐらい)だったので昼はそこで食べ どんぶり飯のおにぎり 2個ほど持ち帰り朝飯、晩飯にしていました。おかげで一か月半なんとか持ちこたえたということです。

路面電車が廃止される年で一度だけ乗ってみました。 タダだったのです(笑)

フトンを運び終わってすぐ学会の家を捜しました・選挙ポスターを目安に捜したのです。夕方は小雪のちらつく空模様でした。

探し当てて入会したいという旨を伝ええました。自分から入会したいというのは珍しいということでチョット警戒されたようです。 で少し時間がかかりました。

でもOKになり台原の日浄寺で御受戒を受け文字曼陀羅本尊を下付してもらったのです。

俺の拝してる御本尊は昭和四十一年一月一日の日付けの細井日達さんのしたためられた文字曼陀羅本尊のコピーされたものです

楷書的なもので俺はわりと気に入っています。

故郷での座談会は家族的で結構好きでした。 でも仙台の方は組織のために活動しているという感じでした。 だんだん離れていったわけです。週刊誌などでいろんなことが書かれていました。自分で組織を変えていくのか・組織から離れていくのか・俺は離れる方を選んだということです。 日蓮の仏法を学びたい・でもいまの学会はチョット違うな・ということでした。 日浄寺で女子部の人に学会の間違っているところを話したら、血相をかえて住職さんを呼んできました 別室に女子部の人と呼ばれて行き なんだお前は といって俺の頭と住職のゲンコツが十センチぐらいの距離という場面ができた ということもありました。 女子部の人がいなくなって・お前の言うこともわかる といっていました。昭和50年代中ごろのことです。

お寺からも 与同罪 ということで離れていったわけです。

創価学会はトップが池田さんになって日蓮の仏法を学び実践するというより、信仰心を利用して上の方にいる人たちの欲望をかなえるというような団体のような気がします。日蓮が一番ではなく、池田大作さんを前に持ってきている・様に思います。

池田大作さんは日蓮の信者を演じてきた人】と俺は捉えています。