何をどうつぶやこうか迷っていました。俺みたいな浅識のナマケモノは教学的なことは基本的に
つぶやくべきではない かなと思ったりしていました。
日蓮の本意から外れてはいけないと思い、極力文証を出してつぶやいてきました。それが逆に話を難しく、解りにくくしているのでは・との指摘を受けました。
ちょっと悩みました。 でも浅い知識の俺は俺なりにつぶやいていこうと思います。
【釈迦如来の御神の我が身に入り替わらせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。】 撰時抄 【日蓮が頭には、大覚世尊かはらせ給ひぬ。昔と今と一同なり】 乙御前抄 などもあり俺的には日蓮の告白と受け取っています。
俺的には、この文証とか先の文証(前回のつぶやき)よりも、自分の直観が90%ぐらいですね 日蓮=釈迦牟尼世尊については。
振り返ってみて【文字曼陀羅本尊は題目を唱えれない・なので三大秘法そうざいではない】 よって信仰の根本ではない。
このことは俺的には常識です。でもほとんど聞いたことがありません。(文字曼陀羅本尊が題目を唱えれないということをいう人を)去年の8月の頼道さんへの手紙 にも書きました。 幼稚園児でもわかることだと思います。
物体を本尊とするカルトということです。 日蓮の仏法ではないと思います。
文字曼陀羅本尊は日蓮が首の座から生還し、我々凡夫のために 魂を墨に染め流して書き上げてくれたもの 大変大変大変貴重で大切な存在だと思います。でも本門(久遠)の本尊は【日蓮が魂・我々の魂】=【我々自身】 ということだと思います。
【妙法蓮華経とはその体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾(しか)れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり・・・】類文は他にもありますね。
久遠の本尊(本門)は我々自身=妙法蓮華・ということだと思います。
大石寺の戒壇の御本尊については、日蓮が作ったとか、のちの時代の人が作ったとかいうのは俺的にはあんまり重要ではないです。
向かって左(北)・ウーン(愛染明王) 向かって右(南)・カーン(不動明王)
それと 花押 (今の時代ではハンコ)の部分・弘安元年の中ごろから、バン(大日如来)からボロン(一字金輪仏頂尊・大日金輪仏頂)に替わったという三ヶ所ですね。
本尊三度相伝の一度に 愛染明王・赤・煩悩即菩提 不動明王・黒・生死即涅槃などとあり
三度には梵字が使われている理由として、梵字じたいで愛染、不動の功徳・力用をあらわしている。とかありますね。梵字は不思議な文字ということかなと。
ここでその梵字をコピー機でコピーしたり彫刻したりしたら、その特性はどうなるんだろう・とか浅学の俺は思ったりします。
あと 【不動・愛染観見記】が参考になるのかなと思ったりします。
でも俺はその研究とかにいそしむのではなく、(研究してそれなりの答え・意見を出しているひとはいる・故喜道君とか・と認識しています)ビールとかそのつまみを少ない資金で獲得しようと、パチンコとかにいそしむのでした。(大笑)
俺はこおいう俺が大好きです(再度大笑)