はぐれ日蓮の信者のつぶやき(出世の本懐)

出世の本懐 俺にとってはどうでもいいことです。俺は自分にとって死とは生とはこれが知りたい ある意味それだけです。その答えとは 一念三千であり【SPRの人たちとかが求めている答え】三身常住 ということです。

それを頭で理解するんではなくて感得するには【日蓮がごとく】ある・する・ということだと思っています。

その実践方法はいわゆる【三大秘法の南無妙法蓮華経】ということだと思います。

戸田城聖さんは、日本が初めて他国に浸逼されたときに、『御本尊を拝め・折伏しろ』といって日蓮の【文字曼陀羅本尊】を普及した人 と思います。

折伏については 化学反応の際の触媒のよう(我見)と思っています

彼のおかげで俺にも日蓮の仏法が届きました。池田大作さんは城聖さんのレールを利用して自分の欲望を満たしてきた人間と俺は捉えています。彼の名前が冠されている書籍は・名は体をあらわすというように・【全て他の人のだいさく・代作】ということが明らかになっていますよね いろんな業績にしても(学校創立とか)同じようなことかなと 仏の境涯からではなく、修羅の境涯の強い人と受け止めています。このへんのことはそのうちつぶやこうと思っています。藤原行正さん、大橋敏雄さんなど 30年ほど前のあたりですね。

出世の本懐については自分なりのとらえ方があります。頼道さんを知ったのは2017年11月頃です。彼の日蓮の出世の本懐のとらえ方も読みました。俺とは全く違っていました。近年原田学会が教義変更した際大石寺戒壇の御本尊を根本として尊仰しないということに成りました・これは正解であり遅かったとも思います・まあいままでの根本ちゅうの根本を変えるわけだからしょうがないかなとは思います

戒壇の御本尊は日蓮が作ったものではなく後の時代につくられたものということが今の時代ではほぼ証明されているので当然のこと・御書にも登場しない

それで出世の本懐を頼道さんの

【仏の本懐(大願)は一切衆生成仏です。日蓮大聖人が法華経の行者として末法の本仏の自覚(人法一箇)をしたのは龍ノ口法難で、直後に、越智で初めての本尊を顕します。しかし、この時点では、日蓮大聖人のみで、一切衆生の存在はありません。つまり、熱原法難に至って師弟一箇(一切衆生成仏)の完成になるのであります。ここが、弘安2年10月1日余は27年の出世の本懐(宗旨建立)であり本尊の中味であります。人法一箇(上行菩薩の自覚)と師弟一箇(常不軽菩薩の自覚)が一体となって、一切衆生成仏の法が完成したのであります。】

と同じ捉え方になったように思います。

これは違うと思います。曼陀羅本尊は熱原の前にもありました。前と後では中味が違う?それはないでしょう。

一切衆生成仏の法は・【余業にわたらざる南無妙法蓮華経と唱えること】です熱原の法難で完成されたものではありません。

ピントがずれている論議だと思います。

【宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆずる事なかれ。信心強情の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり】阿仏房御書

【此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり】

あまり文証を出せません。

【文字曼陀羅本尊を現わしたことか・南無妙法蓮華経と唱えることを教えたことか】

ということだと思います。どちらかを選べと言われたら題目を唱えるほうです俺は

27年については、本懐をとげてから27年と読める(我見)と思っています

文字曼陀羅本尊では27年はあてはまりません。