はぐれ日蓮の信者のつぶやき(一念三千その3・第五の教判)

【一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしずめたり、・開目抄】4番目の教判・本迹相対で法華経本門まで来ました。さらにもう一つ文の底に最終的な一念三千があるということです。

文章を読む際3とうりの読み方があるということです。(文・義・意)文はそのまま読む・義はひととうりの意味・表面上の意味を読み取る【意は何を言わんとしているか】を読むということです。人間の行為・行動・業は (身・口・意)の三つということです。日蓮はこの3業で法華経を読んだ人ということだと思います。その日蓮の言葉です。 【文の底】とは?

偽書日蓮が書いたものではない)ということなのだけれど 本因妙抄に【文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行に渡さず、直達の正観・事業の一念三千の南無妙法蓮華経これなり】とあります。さらに【仏は塾脱の教主、某は下種の法主なり。彼の一品二半は舎利弗等の為には観心たり、我等凡夫の為には教相たり。理即・短妄の凡夫の為の観心は余行に渡らざる南無妙法蓮華経これなり】とあります。

真櫃の観心本尊抄には【彼は脱・此れは種なり、彼は一品二半・此れは但だ題目の五字なり】とあります。

5番目の教判は【種脱相対】ということだと思います。

同じく真櫃の報恩抄に【有智無智をきらわず一同に他事を捨てて南無妙法蓮華経と唱うべし】とあります。これは法華経の三つの大事なこと(今の時代では三大秘法とか言っている)の一つ題目ですね。

結論は【一念三千の種は題目の五字】ということです。

全ての宗教思想を比べて判定すると【人間とはなんぞや・宇宙とは・の答え】最終的には【ただ南無妙法蓮華経と唱える】ということになります。で仏の境涯(悟り)が得られるということだと思います。

実験証明するしかないとおもいます。俺はけっこう理屈やです(自分で言うのもなんだけど)【一切は現象にすぎず】科学そのものです。

比べて判定するのに【五重の相対】という法門があるということです。開目抄に書かれているわけです。

作物を見てみた場合種を植えて・調塾して・実を結ぶ 法華経文上は調塾・結実という内容だと思います。文の底に種があるということだと思います。なので法華経文上の仏は脱益の仏・日蓮は下種の仏ということになると思います。

本因妙抄は弘安五年十月 池上ということなので体調不良の日蓮ではかけないと俺はおもいます。でも相伝以外の部分は結構参考になると思います。御義口伝もそうです。

そもそも仏教自体釈迦牟尼世尊が書いたものではなくて如是我聞というのを結集して書き伝わったものですよね。 内容が大事と思います

同じ日蓮宗でも4番目の教判(一致派)5番目の教判(教観相対とたてる)に異論をとなえる人たちがいるとのことです。これに関してはつぶやきません

面倒くさい・馬鹿らしい はぐれ者の俺のつぶやきです 笑ってください・馬鹿にしてやってください。 ナマケモノの馬鹿な俺・それなりに文証を出して書いたつもりです一応【経巻を手に握らざらん者をば用うべからず】をは心がけてはいるつもりです