はぐれ日蓮の信者のつぶやき(奉書写之について)

【奉書写之】・(之を書写し奉る) の【之】についてチョットだけ

 

俺は教学的なことをつぶやくのはあまり気が進みません。

日蓮の教えは 頭がいいとか教学力が優れている人しかそういう人しか功徳を受けられないのか? ということではなく、貧乏人でも金持ちでも、病人でも健康な人でも誰でも同じように功徳を受けられるということです。

ただ日蓮を信じ 余行に渡らない・他事を捨てて南無妙法蓮華経と唱える 

ということです。

【天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱える籟人とはなるべし】

という御文もありますよね。

 

※くどい話にはなるけど日蓮戒壇の御本尊様(文字曼荼羅本尊)も我々を助けてくれるわけではないのです❕あくまで我々の内なる妙法(本当の本尊)に望む因・果を自分で作っていくということです。その作業が 読経・唱題 ということです。

【叶い叶はざるは御信心によるべし・まったく日蓮の咎にあらず】

なわけです。

 

辻さんの指導もそのへんだったのかなあと、それでいままで何十年も結果が出なかった人がその日のうちにとか3週間のうちに結果が出た人がいたということですね。

皆さんもダメもとで日蓮様とか戒壇様お願いします でなく自分に向かって自分を強くするんだとの思いで読経・唱題してみたら とおもいますね。

 

宗門、僧侶さんたちはその辺をちゃんと教えなければならないわけです。

冠婚葬祭を執り行うだけでなくということです❕※

戒壇の御本尊が信仰の根本だというのは、キリスト教のこの世の全ては神が造った というのと一緒ですね。盲信・狂信 ということです。※

※神様仏様日蓮戒壇の御本尊さま、どうか助けてください!(気持ちはよくわかる)ではなく 自分はこうなりたい、こうしたい・とかの願い、思いを込めて南無妙法蓮華経と唱える というわけです。スポーツでも強くなる、うまくなる には自分でトレーニングしなければなりません。あくまで自分です❣※

 

 

公安寺・三浦接道の名が出たということで 【奉書写之】についてつぶやきます。

俺は日蓮のことを 日蓮と呼び捨てにします。これをとって(呼び捨てる事)謗法(法をそしる)だというわけです。

俺は全くのできそこないの信者です。でも俺にとっては日蓮はこの世で一番尊敬し頼りにしている存在です。ある意味俺の全てと云っていいかもしれません。

 

三浦君にしろ石山の多くの人たちは(最近?一部の人はちがう・之というのは書かれた本尊と認めている)日蓮の信者は【之】を根本として信仰しているんだ! というわけです。【之】は戒壇の御本尊というわけです。ここはチョットだけおきます。

戒壇の御本尊を 之・これ と云っているわけです⁉ 皆さんどう思います⁈

おれに日蓮と呼び捨てでいうのは謗法だというひとが、自分たちが信仰の根本と云っている戒壇様を これ といっているわけです❕ そのことをわかってもいないようですね。(超大爆笑)

 

【奉書写之】の【之】は書き写した元の文字曼陀羅本尊(戒壇の御本尊)ではなくて

書き写したそのものの文字曼陀羅本尊という捉え方もありますね❕

この辺は宮田幸一さん(元創価大教授・富士門流信徒の掲示板の問答名人❓)の

『本尊認定権について』をみていただければとおもいます❕

 

日興さんの書かれた文字曼陀羅本尊は150幅ほど残ってあるそうだけれど【奉書写之】というのはないそうですね 

【之】は書写の手本となる本尊ではなく、書写された本尊を指示していると解釈するほうが正しいのでは❓ということです。

 

※『之』を元に書いた ではなく 『之』を書いた ということ※

 

【奉書写之】の【之】を戒壇の御本尊というのは、ずいぶん後の時代からということです❕

 

そもそも戒壇の御本尊をそのまま書き写した文字曼陀羅本尊はほとんどないわけです。

二千二百二十余年なのに三十余年とかそのほか。  

七個相伝とか【内証】を猊下が書きあらわすとか言っているわけです。

独りよがりの話なわけです。

 

まあいずれにしても【之】は物体なわけです❕(超大爆笑) これ 呼ばわりしても構わないとは思いますね(超大爆笑)

 

みなさん 本尊・根本として尊敬するもの を考えなおしたら‼ と申し上げたいですね。

 

妙法とともにあれ❣                      南無妙法蓮華経