はぐれ日蓮の信者のつぶやき(出家について)

遺誡置文に【時の貫首或いは習学の仁に於いては説い一旦のよう犯有りと雖も衆徒に差置く可き事】 まあ日蓮の御文ではないけれど大事にされてる 文 ですよね。

貫首とか修行僧(出家した人たち)がチョット(笑)セックスしたとしても破門しないでそのまま衆徒(修行僧・門人)にしておけ。 ということだと思います。

本当に日興さんが書いたのかとおもったりします。

ただしその文の前に【先師の如く予が化儀も聖僧為る可し】とあります。

先師=日蓮 は 【妻子をも帯せず魚鳥をも服せず】 だったわけです。

出家が妻帯=還俗 すれば 【還俗せば仏天の御罰を蒙り現世には浅ましくなりはて後生には三悪道に堕ちぬべし、能く能く思案あるべし】とあります。

ただこの御文のある【出家功徳御書】は偽書 の可能性がたかいとのこと

仏法を修行する人を四つに分類してますね。 比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・ですね。

基本的に比丘・比丘尼(出家)は結婚はなし だと思います。

結婚したければ出家しなければいいわけです。今の時代出家しなくても仏教はまなべるわけです。

また今の時代 寺院 をどうとらえるかということがあると思います。

俺は有ってほしいし、あるべき・と思います。ただそれを管理、運営する人が比丘・比丘尼でなければならないとは思いません。(私見

僧侶さんで結婚している人は還俗なわけで比丘・比丘尼ではないと思います。

日蓮によって【一乗の法】が明らかになっている今の時代、悟り を得るのに出家する必要はない と思っています。

日蓮が如く】 とはどこまでなのか? セックスがなければ人類(他の生物も)は滅亡です。

ただ法を説いて供養・お布施を受けて生活している人(僧侶・宗教団体の人)はそれなりの自覚があるべきと思います。

阿部日顕さんみたく(他の研究者さんたちも同じ)いくら教学・知識などがあっても 仏界 とはかんけいないわけです。たんなる(失礼)縁覚界(独覚)なわけです。それがもとで俺の言うことを聞け(修羅界)とか あれが欲しい・これが欲しい(餓鬼界)とかなるわけです。 池田大作さんもそうですね (彼は教学力があったかは?です)

日蓮の説く法(一乗の法)とは 【ただ南無妙法蓮華経と唱えること】 なわけです

因果俱時不思議の一法(聖人が妙法蓮華経と名ずけた)これを呼ぶわけです。

南無=帰命 妙法蓮華経に帰る・もとずく(命)ということです。

帰命妙法蓮華経では奇妙ですよね?(私見・我見)

頭がいい、悪い、知識がある・ない、関係ないわけです。出家、在家も関係ないわけです。

頭が良くて法華経をすべて覚え理解しても南無妙法蓮華経と唱えないとダメということだと思います。(絵にかいた餅と一緒)

俺は中学・高校のとき性欲をおさえていい思い出がありませんでした。むしろ欲望を明らかにしてそのうえで題目を唱えていく これが仏法のありかた とおもっています。