はぐれ日蓮の信者のつぶやき(ニセ本尊について)

創価学会の人たちは不幸な人が多い。その原因は【ニセ本尊】を拝んでいるからだ

という書き込みとか見ました。 主に大石寺系の人たちの言い分のようです。

結論から言えば原因は違うと思います。【 学会の本尊がニセものならば、大石寺の本尊もニセもの】なわけです。 目くそ鼻くそを笑う ということです。

戸田城聖さんも大石寺の御本尊が正式の様式であって、由井正雪大塩平八郎などをあげて勝手に書いたり拝んだりしたらろくなことにならない。とか言っていました。

これは間違いだと思います。

そもそも戒壇の御本尊は日蓮が作ったものではないのです。

根本から崩れるわけです。

富士門流信徒の掲示板】とか宮田幸一さんの【本尊認定権について】

を参照してみればいいと思います。

文字曼陀羅本尊はそれ自体には力があるわけではなく、それを拝する人がどう読むか感じとるか ということだと思います。家を建てる時図面も無しで建てれる人はそういないとおもいます。家を建てることに興味のない人には不要なものなわけです。家を建てるときの図面のようなものと思います。

城聖さんは文字曼陀羅本尊もなしで、折伏も無しで(牢獄の中)悟りを得た 

ということだと思います・(経典はあった)(過去から続いている自分を知った)

ひたすら題目を唱えて

仏の境涯といっても人それぞれということだと思います(一念三千)

俺みたいなバカなやつには祈る対境として(図面)大事な存在なわけです

書く人の資格とか、書く様式とかについては【日蓮の真櫃】にはない・ということです

日興さんいがいにも弟子の中に書かれた人がいたということです。常忍さんも書いたということです。それぞれ書いたことについては問題なかったということです。

大石寺の本尊も、学会の本尊もほとんど同じ効力・を持っているということです。読む人によるわけです。

どちらかが本物で他がニセものということではないと思います。

元々本門の(久遠)本尊は内なる妙法なのです。

【我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり】  (8月14日追加)

このような御文は数多くありますよね。【心の外には法無きなり】【己心より外に実相を求む可からず】などなど

【此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、】これは真・偽はべつとして有名な御文ですよね 

 

仏の境涯を得る方法は【余行に渡らざる・他事を捨てて・南無妙法蓮華経と唱えること】 なわけです。 宿業転換も同じ

大石寺の人であっても、創価学会の人であってもいろんな宗教体験をお持ちの方はおられるとおもいます

不幸な人が多い・これは文字曼陀羅本尊の問題ではなく、信仰の姿勢の問題だと思います。

辻武寿さんのユウチュウブ結構参考になると思います。 妙観講さんとの法論は逃げた・さけた・の動画もありますが唱題の姿勢とかは参考になると思います。

学会の人は、貧乏人とか病人が多いといわれます・俺からいわしたら、大いに結構、威張っていいと思います(笑いはいれれないですね)そういう状況・状態(貧乏、病気)なのは誰のせいでもなく、自分のせいなのです。それを自分の望む方向に持っていく法則を説いているのが日蓮の仏法なのです。 貧乏が金持ちになる・病気が治り健康になる・痛快、人生のだいご味だと思います  なにもなく幸福な生活をしている人でも、やがてシワクチャ(笑)になって死ぬわけです。今世のことしか知らないわけです。

日蓮の仏法の実践者は、病気、貧乏のおかげで来世の設計もできるわけです。

こうなりたい、こうしたい・と想い題目を唱える・理屈とかなんにもわからなくてもそおいう結果にちかずくわけです。勿論今世でもです。やりだすと必ず何か問題が必ずでてきます。過去の業因なのか今世の業因なのかでも軽く出てくるということです(転重軽受)腕がなくなるというのが、指一本で済むとかというやつです。

この時これをどうとらえるか、(問題が発生したとき)によって結果が変わってくるわけです。日蓮を信じ題目を唱え続けていく・その先に望む結果が待っているということです。